名物・浦和の鰻
さいたま市の南部に位置する浦和周辺は、洪積台地と沖積低地からなる地形により、昔から川や沼地が多くうなぎの生息に非常に適していました。
江戸時代、そのたくさん獲れるうなぎを中山道三番目の宿場町・浦和宿を行き交う人々に蒲焼にして提供し、大評判になったのが山崎屋、すなわち浦和のうなぎの始まりです。生産地としての漁場が無数にあるとともに、宿場町という消費地と直結していたことは、広く世に知られる上で大きな要因となりました。
当時、参勤交代の際に中山道の通行を許されたのは、加賀藩など39の大名でした。浦和に投宿、遊郭に繰り出して気勢をあげた一行の御膳に出されたのが、後に「オウナ」と呼ばれた鰻の蒲焼でした。
県立文書館収蔵「会田真言家文書」(文政10年・1827年)には、浦和から毎年江戸の赤坂・紀州藩邸に蒲焼を献上していたことが記されており、当時から鰻の蒲焼が浦和の名物として知られていたことがわかります。
浦和で江戸時代から続く唯一の鰻屋
江戸時代の弘化年間(1844~48)の『浦和宿絵図』には、本陣・脇本陣などと並んで『山崎屋平五郎蒲焼商』が記されています。
明治21年の大火もあり、それ以前の資料は残ってはいない為、「いつから?」ということがわからなのですが、過去帳によると当家の先祖はそれよりもかなり以前の寛永年間(1624~1644年)に当地で暮らしており、何らかの商いをしていたようです。
江戸時代の後期、浦和宿では、中町(現仲町)の『山崎屋平五郎蒲焼商』と下町(現高砂)の『三文字喜八蒲焼店』の2店が中山道を往来する大名や旅人に蒲焼を供しており、浦和のうなぎの評判は、江戸、京都まで広まっておりました。
時が過ぎ、『三文字』はいつの頃か無くなってしまいました...。
『山崎屋』は、「浦和で江戸時代から続く唯一の鰻屋」となっております。
江戸から明治、大正、昭和、平成、そして令和へ
明治21年(1888年)3月14日の浦和大火は、浦和の街の3分の2を焼けつくした大惨事でした。
この時、山崎屋も被害に遭い、長らく今で言う“仮店舗”で営業を続けなければなりませんでした。鰻屋が火事になったら「鰻のたれ」だけは持って逃げるといいますが、当家の祖先も「鰻のたれ」は持って逃げたものの、その他の大事なものは消失させてしまったそうです。
昭和の時代の山崎屋は、離れの個室が中心の完全な料亭スタイルでした。
緑あふれる庭園の中に点在する大小11の個室は、町の喧噪を忘れさせ、風情豊かな趣にあふれていました。そして当時50人以上いた芸者衆も、昼夜を問わずお呼びがかかり、それは大変な賑わいでした。
また、大変なうなぎ好きで知られた昭和天皇をはじめ、天皇陛下、皇太子殿下と三代にわたり、当店のうなぎを召し上がって頂いております。
現在は、平成11年の全面改装を経て、よりお手軽に「浦和のうなぎ」を味わえる店として、近隣はもとより県外からも、多くのお客様にご来店いただいております。
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